アユタヤ観光の際には「日本人町」も訪れてみると良いよ

アユタヤ日本人町

 

アユタヤには世界遺産に登録された数多くの遺跡が残されている。その中にはかつて多くの日本人が住んでいた日本人町跡も残されている。アユタヤ観光の際には、せっかくなのでこうした日本人とも馴染みの深い場所へ訪れても良いだろう。

 

この記事では

▶ アユタヤ日本人町を含むアユタヤの観光地図

から、「なぜアユタヤにおいて日本人町が形成され、最盛期には政治的にも大きな影響力を持つようになったのか?」といった歴史的な部分に興味のある人に向け

▶ アユタヤにおける日本人町の変化
▶ タイ人と日本人の歴史的な関係について

まで日本人町跡で展示されている資料とともに詳しく述べていきたいと思う。

歴史好きな人はもちろん、タイと日本の昔からある意外な接点は知っておいても損はないかと思う。

 

アユタヤの観光地図と日本人町

アユタヤ日本人町の模型
現在のアユタヤ日本人町跡の模型

 

アユタヤの街は川で囲まれた小さなエリア(「たい焼き」の形)、東西約4km✕南北約3kmの部分を中心に遺跡が存在している。

アユタヤ観光地図
「たい焼き」の尻尾の部分にある駅は鉄道アユタヤ駅(©OpenStreetMapより)。バンコクからアユタヤまで鉄道で来る場合、ここへ到着する。帰りのバンコク行き鉄道も、もちろん出ている。

日本人町跡地が残されているのは、魚の尻尾の部分から少し南へ下った川沿いの場所である。

 


アユタヤ観光、ホテル地図。右上の枠の記号(拡大地図を表示)をクリックして拡大で表示すると見やすくなる。左上の矢印が付いた枠記号を押すと、おすすめホテル一覧も表示されます。アユタヤ日本人町は紺色チェックの位置にある。

 

ちなみに、日本人町跡地周辺は何も無い。日本人町からトゥクトゥクを捕まえる場合も、ワット・パナン・チューン(黄色のチェック)周辺まで北へと1kmぐらい歩かなければならなくなる。自転車で訪れても良いが、日中はかなり暑くなるだろう。ツアーを利用したり、トゥクトゥクをチャーターして訪れた方が良い。

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入場料は50バーツ(約170円)。以前は無料だったが、メンテナンスや資料館に配置されている職員への人件費を考えると安いと思う。

営業時間は8時~17時まで。17時以降は敷地内に入れても、建物内の見学はできなくなっているので注意。

 

アユタヤにおける日本人町について

フランス人によって作られたアユタヤ地図
日本人町を意味する「Japponois」の文字がある当時のアユタヤ地図。フランスの使節によって作られたもの。

 

アユタヤにおける日本人町の形成は14世紀頃に始まる。急激に発展したのは戦国時代以降であった。これは戦国時代、日本で主君を失った浪人が流れて来たためである。それ以降も秀吉に迫害されたキリシタン等の流入が続き、最盛期には1000~1500人の日本人が住んでいたとされている。

アユタヤ日本人町は傭兵、貿易商、キリシタン、あるいは彼らの配偶者やタイ族の使用人などで構成され、政治的にも大きな力を持つようになった。特に戦国時代を経て、実戦経験が豊富だった日本人は傭兵としてアユタヤ君主が優遇した事もあり、日本からの流れを加速させたとしている。

当時のアユタヤ朝ではポルトガル人が傭兵として雇い入れられていた。しかし、敵国だったビルマ(現ミャンマー)もポルトガル人傭兵隊を雇い入れていたために、同士討ちを避けたいポルトガル人傭兵隊が発砲しなかったことがあった。こうした経緯からアユタヤ朝はがポルトガル人以外の軍事力を必要としており、日本人の浪人を積極的に傭兵として迎い入れたとされる。

 

アユタヤ朝における日本人町の衰退から消滅まで

日本人町はアユタヤ君主がエーカートッサロットの時代には、政治的にも経済的にも大きな力を持っていた。しかし、アユタヤ君主にプラーサートトーンが就くと、大きくなった日本人勢力を牽制するために、貿易を王室のみに許可する専制貿易を行い経済的な引き締めが行われた。

また、エーカートッサロットの即位に対して反対していた日本人傭兵隊の最高責任者だった山田長政も、アユタヤからナコーンシータンマラートへと飛ばされ、その地で暗殺されている。

山田長政(オークヤー・セーナーピムック)
山田長政。日本人町は現在、アユタヤに住むタイ人の間では彼の苗字である「Yamada」の名称でも呼ばれている。

 

山田長政が暗殺されたのを機にアユタヤ政府によって日本人町は焼き払われ、そこに住んでいた住民も虐殺される。これが1630年の事である。この頃日本では江戸幕府による鎖国政策が始まり、日本からの流入も途絶えたため、アユタヤにおける日本人町もほぼ壊滅状態となった。しかし、1632年には逃げて散らばっていた400人程度の日本人が再び集まり、日本人町が再建された。

軍事的・政治的な影響力は完全に失ったが、貿易商として働いたり、タイ南部で産出されたスズの取引などで再びビジネスを広げていった。その後も100年以上、18世紀初頭まで日本人町は存続したと考えられている。最後にはタイ族へと同化し、日本人としての集まりは消滅している。

彼らの子孫とされる日本人の先祖を持ったタイ人が現在でもアユタヤ地域を中心に存在しているのだ。

 

現在のアユタヤ日本人町について

アユタヤ日本人町

 

現在の日本人町は日本庭園や日本人達が遠い故郷の日本を思い眺めたとされる船乗り場の他

▶ アユタヤ・ヒストリカル・スタディ・センター(Ayutthaya Historical Study Centre)

▶ 山田長政(オークヤー・セーナーピムック)とターオ・トーンキープマーの展示館(The Exhibition of Yamada Nagamasa(Okya Senaphimuk)&Thao Thong Kip Ma)

の2つの建物で構成されている。

 

アユタヤ日本人町 アユタヤ日本人町・日本庭園 アユタヤ日本人町・日本庭園 アユタヤ日本人町

アユタヤ日本人町・日本庭園
日本人町跡敷地内。日本庭園はきちんとメンテナンスもなされており、キレイに保存されている。

 

アユタヤ・ヒストリカル・スタディ・センター(Ayutthaya Historical Study Centre)

アユタヤ日本人町

 

館内では日本人町の歴史が映像作品として上映されている。日本語に対応しており、館内を回る前に、こちらの映像を先に見た方が良いだろう。大体の概要を理解してからの方が館内資料への理解も深まるはずだ。

アユタヤ・ヒストリカル・スタディ・センター(Ayutthaya Historical Study Centre)年表
歴史年表。日本やタイ、世界における出来事が壁一面に張られて展示されている。

 

アユタヤ・ヒストリカル・スタディ・センター(Ayutthaya Historical Study Centre)豊臣秀吉
上でも述べたように、アユタヤへ日本人が流入するきっかけとなったのは豊臣秀吉やその後の徳川家康の政策だった。

 

アユタヤ・ヒストリカル・スタディ・センター(Ayutthaya Historical Study Centre)
貿易が行われた経路。当時のアユタヤはタイ南部から東アジア、西アジアの貿易拠点としても栄えていた。

 

アユタヤ・ヒストリカル・スタディ・センター(Ayutthaya Historical Study Centre)
当時のアユタヤを再現した壁画。

 

アユタヤへ移住した日本人が使用していた道具なども展示されている。

アユタヤ・ヒストリカル・スタディ・センター(Ayutthaya Historical Study Centre) アユタヤ・ヒストリカル・スタディ・センター(Ayutthaya Historical Study Centre) アユタヤ・ヒストリカル・スタディ・センター(Ayutthaya Historical Study Centre) アユタヤ・ヒストリカル・スタディ・センター(Ayutthaya Historical Study Centre)

昔アユタヤへ移住した日本人について、興味深く見ることが出来るだろう。

 

山田長政(オークヤー・セーナーピムック)とターオ・トーンキープマーの展示(The Exhibition of Yamada Nagamasa(Okya Senaphimuk)&Thao Thong Kip Ma)

山田長政(オークヤー・セーナーピムック)とターオ・トーンキープマーの展示館(The Exhibition of Yamada Nagamasa(Okya Senaphimuk)&Thao Thong Kip Ma) 山田長政(オークヤー・セーナーピムック)山田長政(オークヤー・セーナーピムック)とターオ・トーンキープマーの展示館(The Exhibition of Yamada Nagamasa(Okya Senaphimuk)&Thao Thong Kip Ma)

当時のアユタヤに生きた日本と関係する2人の人物(山田長政とターオ・トーンキープマー)にスポットを当てた展示館である。こちらでも2人の物語が上映されている。

 

山田長政(オークヤー・セーナーピムック)

山田長政(オークヤー・セーナーピムック)

山田長政は上でも述べたようにアユタヤ朝において日本人町の頭領を務めた人物である。

アユタヤー王朝の国王ソンタムの信任を得て、シャムの王女と結婚。第三位であるオークヤー(あるいはプラヤー)・セーナーピムック(ออกญาเสนาภิมุข)という官位・欽賜名を授けられ、チャオプラヤー川に入る船から税を取る権利も得ている。

更に詳しくはwiki/山田長政を参考に。

山田長政(オークヤー・セーナーピムック)

 

ターオ・トーンキープマー(Thao Thong Kip Ma)

ターオ・トーンキープマー(Thao Thong Kip Ma)

ターオ・トーンキープマーはポルトガルと日本の血を引く混血である。父親が日本とポルトガルのハーフで母親は日本人であった。つまり、4分の3の割合で日本の血を引いていることになる。

両親は、ローマン・カトリックを進行しており、信仰に対する弾圧を逃れアユタヤに移住してきた。日本人町の向かいにあるポルトガル人町に住んでいた。

 

タイで起こったシャム革命で主人であるフォールコンが殺されたとき、捕らえられ2年間牢獄に入った。しかし、後に料理の才能を認められ、ターオ・トーンキープマーの官位・欽錫名を与えられ王宮の菓子部長となった。

ターオ・トーンキープマー(Thao Thong Kip Ma)

タイの菓子は17世紀までは米粉とココナッツミルクと砂糖が主な原料だった。彼女はタイで初めて小麦粉と牛乳といったヨーロッパの食材と玉子を取り入れ、洋菓子のテクニックを用いたお菓子を作った。

ターオ・トーンキープマーは「トーン」の名前が付くお菓子、例えば、「トーンジップ」「トーンヨート」「フォーイトーン」などのお菓子の元祖を作ったアユタヤ人として、タイ人に知られている。

 

タイ人と日本人の歴史的な関係について

アユタヤ日本人町の桟橋
アユタヤに流れ着いた日本人達が遠い故郷の日本を思い眺めたとされる船乗り場。こちらも日本人町の敷地内にある。

 

16世紀以降活発になる西洋の植民地政策が日本に及ばなかったのは、日本が世界でも有数の鉄砲所有国であったためとされている。加えて実戦経験が豊富な兵士も多く、キリスト教牧師から情報を得ていた西洋の国も攻め込むことを躊躇していた。

第二次世界大戦時に、日本は西洋の連合国軍と交戦したが、タイも周辺国とは違い植民地化を免れ、日本との同盟関係を結んでいる。日本とタイの関係はこの第二次大戦時の同盟関係から始まったと認識している人も多い。しかし、アユタヤにおいては、この日本人町が形成された時代からの繋がりを意識している人が多い。また、共にアジアで植民地化を免れた数少ない国として誇りに思っているタイ人もいる。

 

ここには様々な資料の展示や歴史的な紹介がなされており、あまり知られていないタイおける日本人の歴史を知ることが出来る。日本人であれば、面白いと感じる部分も多いだろう。アユタヤ遺跡を回るついでに訪れることをおすすめしたいと思う。

 

日本人町に限らない、アユタヤにおける観光スポットについては下記記事を参考に。

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付利意雷布亜(フリーライファー)

東南アジアを中心に、1年のほとんどを移動しながら生活している海外旅行のエキスパートです。このブログでは旅行者の視点から、旅行者向けに、タイ、ミャンマー、ラオスのお役立ち情報とフリーター経験をもとにしたアルバイター向けの情報も掲載しています。